メモ

 ツイッターで「人を巻き込まずに、一人で死ね」という発信を巡って論争が起こっている。一方は“そうなった環境条件を考えずに責めるのは人間を切り捨てるものだ”と主張している。・・・そうした人権派的言動の方が『正しい』とは思うのだが・・・なんとも腑に落ちなさが残る。

 政治的・社会的には『一人で死ねではなく、もっと人を頼れ』の方が正しい主張で、追い詰められた人をさらに追い詰めるのは得策ではない・・という論旨はわかる。事実、その後に「自分の息子に手をかける」という悲惨な事件が続いて起きたわけで、論理の問題ではなく、そうした悲惨を誘発しかねない「社会的不安定」が現実にあるという事だろう。

 

 風景画を描こうと・・地元を巡っているのだが・・昭和的家屋はほとんどが廃屋で、新しい家々はどれもセラミック外壁のしゃれた家々が多い。年収が下がっている・・と言われるわりには豪華な家々ばかりである。それも新しく開発された住宅地といった風情で、地域全体が家の作りを競っているように見える。悲惨な事件を起こした事務次官の家もTVで見る限り壁面が円弧の金のかかった作りである。こうした外観の華やかさの裏に。とんでもない悲惨が隠れているのが21世紀の現代なのだろう。

 『一人で死ね』を私個人の考えでは・・一歩進めて『人は一人で死んでいくもの』・・言ってみれば仏教でいう『苦諦』をわかる必要があると思っている。あきらめる・・一人死にゆく者としての諦念が必要だと思う。(説明不足だけど・・・)

 いつまでも「他人がなんとかしてくれる」「他人が悪い」という考え方では「苦」は増幅することはあっても、弱まることはないだろうと思う。快楽原理で生きている現代というものの限界がそこにあるように思う。

 

 退職後の19世紀の“研究?”はトーマスマンからはじまった。「なぜトニオ・クレーガーは(つまりマンは)、世界の描いてくれと言っている物達の声を拾い上げる事にあれほど逡巡したのか?」という疑問からはじまった。「トニオ」の最後で、さあこれから描ける・・と予感しながら、「非政治的人間の・・」とか「魔の山」とか、さらに「トニオ」の別バージョンの「ベニスに死す」をなぜ描いたのか?・・・・・

 

 メモ (新)アカデミズム=新写実主義・・ホキ美術館??

 

 御宿の小波月・・について

  千葉県の夷隅郡(大原)から鴨川にかけてリアス海岸?が続く、見たところ泥岩が層をなして積み重なっているように見える。同じような短い海岸と崖が交互に連なっているようだ。小浜海岸、釣り師海岸、田尻海岸・・等など(後で訂正予定)そして最後が有名な「おせんころがし」で行川アイランドになるらしい。どこも崖崩れとそそり立つ岸壁で立ち入りが困難で・・観光客も少なく知られていない。