地毛証明書2

 脳科学者の茂木さんが「地毛証明書」を日本の「後進性」のように書いていて・・・同調する若い人コメントが多くありました。・・・曰く“先生も地毛証明書出すんでしょうね(ズラや白髪を隠してないんですか?)”・・・これは糞味噌な論理ですが、頭髪検査というものに違和感がある人にとっては「心情」としては理解出来ます。

 

 ただ、「ファッションの自由」「身体表現の自由」という問題となると、ちょっと違う・・というのが私の感想です。自由の森学園のような学校のあり方には関心があって、在職中に何回も飯能の山の中に通いました。「高校でありながら大学のようなつくり」の学校でした。ご存じのようにいわゆる「ウヨク的な人」には非難の対象となる学校ですし、佐藤学さんのような人も「自由主義学校であるこの学校は・・」という理解をされていました。 入試に「自己表現(芸術)」を取り入れて「表現」を学校の柱にしていて・・・微妙なバランスの上に成り立っている学校でしょう。自森の教員も「学費が高い学校で・・自分の子供は入れられない」と言ってました。私立学校は入学者の「家庭の経済状況」というフィルターを(結果的に)かけることができるのです。 

 

 この文は茂木さんへの異論なのです。(コメントの入り口がわからない)あなたが教えている東京芸大を基準にしてモノを見ていませんか・・というものです。人間が自律して自覚的個性として「自己表現」をする。「人間は信じられるものだ」・・・そうした啓蒙主義的人間観は正しいでしょう。でもそう正しいことを言う「自分に酔っていませんか?」・・目の前の「荒れる生徒」を前にしてもそんな事が言えますか。

 

 一人の金髪生徒について書きたいのです。(有村さんが演じた、進学私立の落ちこぼれの金髪娘の逆転劇の話しではありません) マンモス団地の一角に彼の家はありました。言うまでもなく「公営団地」は老朽化と高年齢化の中で、昭和のような華やかさはありません。むしろ地域には準組員的な若者がいて・・カツアゲまがいの人間関係を築いています・・と彼が言っていました。

  ・・・・・? いや 具体的に書くのは「守秘義務違反」でしょう。

 環境や習慣、家庭状況や健康、恵まれない人は何重にも「不本意」な事象が積み重なって行きます。「小さな本人なりの努力」など・・生かせない境遇というのもあるのだと思い知らされました。

 

 「たかが金髪、されど金髪」です。金持ちのお坊ちゃんが、ファッションとして金髪にするというのと「文脈」が違います。「金髪」という形で表現される人間としての要望・叫びをキャッチできないとしたら、教師失格だと私には思えます。

 

地毛証明書

「地毛証明書」がネットで話題になっています。
自分として論立て出来ているわけではないが・・単純な批判・・に違和感があります。
「所詮、現場を知らない人の意見だ」という私の心の声があって、でもそう思う自分もまた情けない・・・と感じている自分がいます。

 地毛証明書・・それが「奇妙で」「人権を踏みにじっている」という感覚には同調しますが・・・ちょっと待て・・・と感じてしまうのは(元)教員の性なのかも知れません。

  以下 弁護士さんのブログ

> 生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在するものであって、そのような生徒に対して黒髪を強要することは、不合理な差別であると言わざるを得ません
(○○弁護士)

 上の文は、解釈を間違っています。・・「地毛証明書」というのは「赤毛」の人はそのままで良い・・という証明で・・黒髪にしろではない。という点で完全な誤解なわけです。教師の本音は違う・・と推量するのでしょうが・・それは読み過ぎ・・というものです。

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反発する人の気持ちがわかってきました。もしかしたら「ユダヤ人証明書」みたいな感じで受け止めているのかもしれません。証明書を出させて、「よい子」がみんな黒髪にしたら・・ある意味怖い・・かも知れません。赤毛の子が目立ってしまって・・後ろ指さされて、ひそひそ話がされる情景が浮かんできます。(戦前の日本では、赤毛の子はつらかった?)
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 こういうブログがありました。

“自由”にすることで“人が育つ”教育

 教育現場で「地毛証明書」を提出させるほどシビアに取り締まり、黒髪でなければいけないと押し付ける必要があるのかどうかを問いかけたい。なぜなら、“禁止”から生徒を解き放つことで感性豊かであったり、勉強ができる人材が育っていく教育もあるからだ。そんな日本の学校を2校紹介したい。
 1校目は、都内トップの進学校である麻布学園には「校則」が一切ない。服装や髪の毛の色はすべて自由であり、茶色に留まらず髪色が赤や黄や青の生徒がいるのだとか。しかし、この高校は「自由な生き方」をさせるのが方針。「自由」に責任はもちろん伴う。つまり自由の中で社会とのバランスを“自分で考えて”行動することを委ねている。
 この校則なしで“自分で考える”力を育てている方針が麻布学園を東大合格者数4位の進学校にさせる1つの要素なのではないか。
そして2校目は、自由の森学園。その名の通り自由な学校で、「一人ひとりをかけがえのない“個”として育む教育」を掲げ、校則も定期試験もない。麻布学園のように「偏差値が高い」学校ではないが、クリエイティブな人材を多く輩出している。
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 超エリート校の麻布を出しますか!・・・麻布の入試問題を見たことがあります。町の自転車店でスポーツタイプの自転車を見たが・・やはりイタリア製の自転車にかなわなかった。という内容でびっくりしました。入試や家庭環境のレベルが高すぎです。
  私は「自森」が好きで学校見学に何度も行きましたが・・これも別の意味で「エリート主義」です。
 以前日比谷高校に勤務していた先生がこういいました。「日比谷で驚いたのは、昼休みにヴァイオリンやチェロを持ち出して演奏を始めるんです。部活ではなく一般生徒がです。・・・“太鼓”じゃないですよ」
「“太鼓”じゃない」に驚きました。当時、太鼓を通して生徒に自信をつける。という取組がはやっていたころです。ソーラン節もですね。

 私は本来は「赤毛」でも「金髪」でもいいと思います。しかし、問題はそうして「学校が成り立つか」ということです。「腐ったミカンはない」という言葉が金八先生ではやりましたが、ああしたドラマが毎日の学校でおこっていたら・・普通学校は荒れ果ててしまうでしょうし、実際荒れ果てていました。

 ある学校で、生徒がバイク事故で死にました。モンキーバイクで飛ばしていて車に衝突しました。葬式をしました。赤毛、金髪の生徒が他校生も含めて大勢集まりました。集まった生徒たちの一部はコンビニの前でヤンキー座りをしてたむろしていました。そして夜学校に入って、ベランダに 大量のタバコの吸い殻と落書きを残して行きました。彼らなりの葬式だったのでしょう。書き始めたのですが・・こうした話題は難しいです。いろんな心理が輻輳するからでしょう。人なつこい生徒でした。が、亡くなると「殉教者」になってしまいます。「オートバイに捧げた、青春・人生」というストーリー(神話)が生まれます。・・・今考えると、この頃から格差・貧困が強まったのでしょう。片親家庭や両親とも非正規という家庭が目立ち始めました。学校文化を受け入れない親が少なくない。
 その亡くなった生徒の親は葬儀で言いました。「若いんだからオートバイに乗って何が悪い。それも若さというもの」・・・多分教師もそれに共感すべき?だったのでしょう。校則に反して・・・というニュアンスの言葉を言う教員もいて、生徒の反感をかっていました。

 地毛証明書・・・哀れな方策です。 でも「自由な校風」と言う評判がたつと、金髪・赤毛の生徒が集まってきます。何が生まれるか・・・仲間さんの「ごくせん」みたいな教室が出現します。バックにヤクザさんのいるヤンクミならいいですが・・普通の教師では対応出来ないし・・一話完結的に考えを変えるはずもありません。地域には金髪生徒に目をつけている「組」関係者がいるわけです。

この辺で中断します。

本質は現象する2

 2017年1月11日

 

ヘーゲル哲学は<本質は現象する>という文に還元できるのではないか?・・と思っている。

・・・ヘーゲルは未だに読解するのも難しく、読んでも文意がとれない。主語に概念をおく・・概念が展開するという形をとるので普通の文ではない。「それ自身が自分に反照する」のように表現する。・・(もしかして概念の擬人化?・・・と思い・・以下当てはめてみる)

 

理念・・・(社長)・・・人事権・予算執行権・方針策定・執行権

概念・・・(専務)・・・現状認識と方針実行権を持つ

本質・・・(課長)・・・現場と方針の軋轢を知る。部内の矛盾を把握している。

有・・・・・(社員)・・・仕事がだるい。計算と商品と客の目利きができる

 

少し考えてみた。意外とこうした擬人化は悪くないようだ。例えば・・・・

    ・・・・・・・・

「有(Sein)は即自的にすぎぬ概念である。その諸規定は有的であって、それらが区別されている場合には互に他のものであり、それらの本性のより進んだあらわれ(弁証的形式)は他のものへの移行である。この進展は、即自的に存在する概念の不断の開示したがってその不断の展開であり、と同時に、有が自己のうちへはいって行くこと、すなわち有が自分自身のうちへ深まって行くことである。有の領域における概念の開示は、一方では有の全体を展開するとともに、他方ではこれによって有の直接性言いかえれば有そのものの形式を揚棄する。」

 「ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である。」

 「無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である。」

     ・・・・・・・

 最初の「有」は採用試験の受験者と考える・・・会社にとっては有(社員)でも無(部外者)でもないわけである。・・つまり抽象的存在で、有とは言えないし無(やめる)とも言えない存在である。

 社員になる<成>となることによって、具体的有(規定されたもの=配属が決まり)やめる(退職・・と退職手当)ことができるものとなる

 

>他方ではこれによって有の直接性 言いかえれば有そのものの形式を揚棄する。」

これは「ただの人間」から、役割を持った社員になるということでもあろう。

 

冗談で、試みたことだが・・・意外と当たっているようだ。

 

 

本質は現象する1

2017年1月7日

<本質は現象する>という言葉をもてあそんでいる日々・・なんて年賀状に書いたら、反応が多々あった。これはヘーゲルの言葉なんだが「自分自身がずっと忘れていた言葉=考え方」で・・・昔はそんなことをよく考えていたな・・・と思ったのだが、記憶の底に埋もれていた・・のか記憶が明瞭ではなかった。

 

 

記憶を辿ってみると・・・高校時代に「表面ばかりを見ないで、もっと本当のところをみなさい」とか「エッセンス」が大事・・なんて言葉は日常的に美術室で言われていた言葉だった。モチーフ(対象)を目の前にして「物をもっと見なさい」という叱責・・「表面しか見てないじゃないか」・・・・現実の物を見ながら・・夢を見ているような感じだった。(10代)

<本質は現象する>とは、逆に言えば、目に見えている対象の背後に「本質」がある・・今見えているのは「表面」でしかない・・・まるで「禅問答」のような物言いだが、そうした無理難題の痛棒によって・・対象の「構造」を掴んだり「質感」を把握したり・・という自分なりの対象把握をつかみだしていったのだろうと思う。

21世紀・・・こうした19世紀的アプローチの意味はどうなんだろうか?と改めて、ヘーゲルの言葉に私は「動揺」しているわけである。つまり19世紀には「描く」という行為はかなり哲学的・芸術的だったようだ。ゲーテもかなり絵を描いていたようだ。

 

音楽がかなり早くから、感覚の標準化とその連関を「楽器」として定着させ、物理的・数学的和声を発見していたのに、美術の色覚の科学的コントロールの方法を手にいれたのは、コンピューターが「色光」を画材として扱えるようになった、ここ20年?ほどのことだろう。人間の感覚を道具として訓練しなくていい時代になって・・すっかり「単純に描くこと」の<神秘性>が無くなってしまって・・・・あらためて

 

<本質は現象する>・・・なんて言葉に驚いている・・ということだろう。