前妻を亡くしてから長い間“親鸞”に傾倒していました。自分の“罪業感”のためでした。

 

 一般に親鸞人気は高いですネ。・・・遠藤周作キリスト教小説「沈黙」にしても、裏切りを許さないキリスト教とそこを問わない親鸞教の違いを問うものだったのでしょう。日本仏教の「母性性」・・全てを包み込んで許す・・という日本的感性と父性原理の西洋との相克を書きたかったのでしょう。 

封建制」という言葉があります。政治制度としてのそれでは無く・・経済的には「自給自足的な経済制度」(と言えるかも?知れません)をイメージしています。日本で言えば「惣村」と言うような自治的村の形成を考えていますが・・それは自治と言っても近代的なものではなく・・村長(おさ)を中心に結合した、地縁・血縁の共同体ではなかったか?・・個人ではなくあくまでも村掟が優先する集団では無かったか?と想像してみます。(全然学問的でないのが残念です)

  

 千葉だと「佐倉惣五郎」の伝説があります。村人のために命を捧げる「義人」であるわけですが・・村のリーダーは否応なく、そうした役割を演じなければならなかったのでしょう。一種の人柱かも知れません。

 

 途中

 

 

 

記事を書く

 

 

 

想像と死

 この年齢になると、何度も身内との別離を経験する。・・・が、さあ自分の番だとなると「無宗教」でもいいのではないか・・と最近思っている。

 

 ネアンデルタール人には墓に花を手向けた痕跡があると言われていて、そういう行為=つまり精神活動が人間が人間になった証だとも言われるが・・・いやサルだってネコだって過去の記憶をもっていて、失ってしまった過去と現在とのギャップを自覚することはあるでしょう。半年以上前に死んだ先住ネコの匂いに・・悲しくなくネコの姿をこの目で見ました。・・こうしたズレ、残った記憶が異世界や宗教やイディアを生み出すのでしょう。(こうした延長で・・自分・他者・共同体との関係で宗教を論じるべきでしょうが・今の私にはそんな力はありません)

 

 人が死ぬ・・という突然の非日常体験では経験者=葬送の専門家の力を借りるしかないでしょう。 死んで・・通夜があり 葬儀があり 初七日があり・・・そういうふうに世間通念どうりに時間が過ぎていきます。そして縁者がさり・・・一人の日常に直面する・・・なるほどネ・・・宗教や葬儀が死んだ人のためにあるわけではない・・・のがわかります。

 死者は・・天国や浄土にいる・・と考えないと収まりがわるいのかも知れません。心理的には死者はなかなか死んでくれないようですから。

 

 宗教・・“神”とは抽象的・仮想的・イメージの・文化的存在だと思っています。想像上の媒介・・仮定された点だろうと思っています。フォイエルバッハの言うように「人間が神を作った」という考えは私の中で揺るぐことはありません。人間の知ることの出来ない膨大な領域がある・・と考えることは甚だ不都合な事です。そもそも分からないことを思考するなんてことは・・論理矛盾・悪矛盾?でしょう。 

 

 

 

 若い世代の右傾化・・が言われます。私は団塊の世代ですが所謂「民主主義教育」は結局“成功しなかった”という事なのかもしれません。「若者研究プロジェクト」を立ち上げなければ・・と言うのですが、良好な反応はないようです。ここで大きく戦後教育を考えてみたいと思ったのですが・・むしろ最近(と言っても5年前)の状況を見てみたいと思います。

事例1

 生徒が変わった・・と思った最初の出来事はトイレでタバコを吸っているのを発見して・・つまり煙が出ているのを発見して、目の前に火のついたタバコが落ちているのに・・これは俺のではない・・と言い張る生徒が現れたことでした。それまでは「悪い事をしたら正直に話した方が良い」という暗黙のルール(美意識)が生徒にはあったのですが・・そうした美意識がないという事に驚きました。仲間集団があってそれなりの美意識・規範があったのに・・いつころからかそうした集団規範が無くなって、目の前の煙の出ているタバコをただ見つめるだけの関係になってしまったのでしょう。

事例2

 今思いついたのだが生徒会役員の「政治塾発想」化・・・つまり小池塾を受講して政治家への道を開きたい・・・それににた発想が生徒にあるのだろう・・と「言葉化」して見ました。今、大人の世界で「松下政経塾」出の人が微妙な立ち居振る舞いをしているわけですが・・・青年期の世界でもそうなのかも知れない・・と今書いてみて・・戸惑っています。(つまり、公私で言えば 私の優先・・)

 <個人利益が先にあって・・その後に仕事・課題可決がある>という事、生徒の表現で言えば「下心」は前提・・という現実主義があるのかもしれません。 

*文化祭は1人の学生につき2名までしか呼ばない。チケット制。中学生は誰でも入れるが高校生はチケットがないと入れない(口コミから)

 ある時生徒会が「チケット制廃止」を打ち出しました。団塊世代の管理職が・・自由はいいことだ・・という一般論でそれを認める発言し強行しました。私は「反対」しました。“寝た子を起こす”ことを危惧したからです。(主義・意見の問題ではなく力関係として)・・簡単に言ってしまえば運動部の顧問にとって選手が練習に集中しなくなり、さらにグランド・体育館が使えない事になり、さらに警備という下積みの仕事が回ってくることは耐えられないことなのでしょう。

 案の定、そのチケット廃止の翌年「文化祭公開禁止」という意見が職員会議で多数を占めることになりました。「ヤクザまがいの人間が入ってきた・・我々は用心棒ではない」と言うことでした。紛糾し、管理職預かりということに・・・

 びっくりしたのは「チケット制廃止」を打ち出したはずの生徒会メンバーが「非公開」を受け入れたことです。私が「役員になるまでは生徒の要望を実現すると思っていたのでは」と言いましたが・・その答えは「その時と立場は違います。学校の決定に従います」・・・何だろうこれは?この権力への弱さは? 結局生徒会からの公開要求の動きはなく・・教師主導で「文化祭の公開」を持続させる事になった・・のですが・・・

 *この二つの事例から導かれるのは「私人化と過剰適応」と言うことで、若者は正義感を持ち社会の不正を許さないもの・・というのとはかなり異なった状況にあるように思います。(共同体の崩壊と私人化)

 事例3

 真面目な子たちに「右傾化」が見られます。私はフェイスブックをやめて、こうした誰も見ないブログに待避したのは・・アクセスしてくる卒業生が、右翼的言辞をもてあそんでいて・・それでも私につながっているという状態に耐えられなかったからです。論争するわけでもなく、言いぱなし・・で、です。一人一人の顔が浮かびますが・・真面目という以外に共通した傾向は見えません。

 思い出したのは 70年代のはじめ、まだ学園紛争の余波が残っているころ・・生徒にポスターを作らせたのですが一様に「和」でした。新任の教師として驚いたのですが「和をもって尊しとなす」・・つまり争わない・・というのが彼らの常識であった・・というのが驚きでした。時は革新自治体の時代でしたから、それでも「和」と「平和」の間のニュアンスの違いは感じ取っていたようですが・・・30年後の今は・・「和」一辺倒のようです。

 

 打開策はあるのか?? わからないまま 今日はここまで。

 

風紀問題

頭髪が生まれつき茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され精神的苦痛を受けたとして、大阪府羽曳野市の府立懐風館(かいふうかん)高校3年の女子生徒(18)が約220万円の損害賠償を府に求める訴えを大阪地裁に起こした。27日に第1回口頭弁論があり、府側は請求棄却を求めた。生徒は昨年9月から不登校になっており、「指導の名の下に行われたいじめだ」と訴えている。

 

 懐○高等学校 口コミから抜粋
総合評価
懐風館はみんな仲良く悪い人はあまりいないけど、校則は厳しいし、文化祭などもショボいし、授業も中学校より簡単でレベルが低いので高校生活楽しみたい方、大学進学を目指してる方はやめておいた方がいいとおもいます。
校則
頭髪やメイクなど本当に厳しいです。
実際に髪を染めていなくても、茶色かったら指導がありますし、集会や行事のたびに頭髪検査があります。
進学実績
懐風館は専門や就職なども多く、進学を目指してる方はやめておいた方がいいと思います。実績もなく、多分1番良くて近畿大学位だと思います。
施設・設備
本当に汚すぎて入学した時ビックリしました。
教室のドアも重いし、水周りは本当に汚いですし、和式トイレしかないです。あとなぜか渡り廊下が紫の壁をしててほんとセンス悪いです。
制服
制服はかわいいと思う人もいればダサいと思う人もいるので、人によると思います。私は普通にかわいい方だと思います。
イベント
ほんとにショボいです。
特に文化祭は何かと制限が多く、店もショボいものしかないですし数も少ないです。

 

因みに私が在職した某私立高校の口コミ
校則
1年生、2年生の間は全くと言っていいほど厳しくありません。集会があるときは直されたり注意されたりしますが、通常の学校生活では着崩している生徒が大多数です。スカート丈もあまり注意されません。3年生になり受験が近づくと、先生方がきつくご指導してくれます。
進学実績
高校の授業じたいがあまり高いレベルではないので、すごく頭のいい大学を目指すという話はあまり聞きません。しかし、受験期になると先生方が積極的に面談などをしてくれて話を聞いてくれます。
制服
高校の制服は他の高校に比べてずば抜けて可愛いです。おまけに校則が緩いので、皆自由に着ています。リボンではなく、赤いネクタイです。女子は指定された女子用のネクタイがあるのですが、皆男子用のネクタイを使っています。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私がツイッターで地毛証明書は必要だと書いて「心ある人」から批判されましたが・・生徒の声は「うまくすり抜ければ問題なし」とすっかりなめられています。校舎がきれい。制服がかわいい・・ようです。上の・・皆男子用のネクタイを使っています・・・とは私彼氏いる・・またはもてる・・ことを暗示しているのです


 この学校も「校内暴力」の時代は大荒れで、校舎前にタクシーが女子高校生を求めて何十台も列をなすという状態でした。売春に応じる女子を物色している・・ということを運転手さんから聞きました。年間の停学人数160件、そうした地獄からなんとか「ぬるいけど、まあいいんじゃない」というところまで持ってきたわけです。
 この間の「大阪府立問題」を巡って、人権問題・・といった大きく構えた議論が多いですが・・・普通の生徒から見たら大げさな話しかもしれません。5年前までは現職教員でしたからそう生徒が変わっているとは思えません。特に女子は「自分たちはかわいい」という自覚を持っているらしく、それなりの対応をします。

 この学校で私と仲間は「文化祭改革」から手をつけ始めました。かつて公立の落ち穂拾いだった最底辺に近い私立高校も「私学ブーム」にのってある程度の回復が図られました。教育論はさておいて「サービス業」としての学校という意識が教員にありましたから「強面」の対応などあり得ませんでしたし、それ以上に教師の体罰克服は重視されました。管理職のリードではありません。下からの改革運動です。

 

風紀問題を論ずるつもりでしたが・・結局は「学校づくり」という大きな視点で見ると。風紀など部分でしかないような気がします。 風紀問題を語る必要はあるが・・風紀問題だけで解決出来る問題ではないでしょう。大阪の場合の基本的構え・・から問題がありそうです。

日記1

2017年9月14日

私はこの数年間、19世紀(研究?)にこだわっています。ヨーロッパの19世紀・・知ってるつもりだったのですが・・いやそんなことは全くなくて・・・。

 今、「英文」を読むことをしている訳ですが、インターネット上に広がる英語表現・英語文化の世界こそが「世界」で日本語表現の世界は実にローカルなのだという事を初心者ながら感じています。日本でも「青空文庫」のように自由に無料で読める文献は増えていますが・・本格的には日本文でも書籍に頼らざるを得ないでしょう。ましてプラトンヘーゲルなんかに至っては大枚をはたいて「翻訳書」を購入しなければならないのに・・・英文サイトでは・・・Freeに読むことができます。ヘーゲルの小論理学の岩波文庫版が絶版で、意訳しすぎた長谷川版しか手に入りません。が英訳された小論理学はなんと言うことなく手に入ります。哲学に関して言えばギリシャから・・最近までネット上にあって、それらが共通教養あつかいされているということに驚いています。

 英語力はもともとありませんし、教室でさされて立ち往生した夢ばかり見た私ですから「英語」なんてじんましんが出そうですが・・そこは「老人力」怖い物への感受性が鈍くなったのでしょう・・意外と無理ではなさそうです。易しくて短文の「知られざる傑作=バルザック」の英訳を読んでいます。不思議なことに「日本文」ではマンネリで新鮮さがないのに結構、感動しながら読んでいます。

 >「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)を対置して、内容、素材とそれを用いてつくられたかたちという対の概念として初めて用いた人は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスである。彼の『形而上学』の中にこういう概念枠組みが登場する。また『自然学』でもこうした枠組みで説明が行われる。
 プラトンが観念実在論を採り、あるものをそのものたらしめ、そのものとしての性質を付与するイデアを、そのものから独立して存在する実体として考えたのに対し、アリストテレスは、あるものにそのものの持つ性質を与える形相(エイドス)は、そのもののマテリアルな素材である質料(ヒュレー)と分離不可能で内在的なものであると考えた。
 プラトンは元来イデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていたのだが、アリストテレスが師の概念と区別してこの言葉を定義した。(ウイキ)

一般に「コロリスト=色彩家」と「デッサン家」はお互い対立する概念と美術では言われていましたがバルザックのこの小説でも色彩家のティツアーノ(ベネチア派)とデューラー(ドイツ)を対照して混じり合わない二つの傾向として描いています、


>【自然法】より (ブリタニカ)
…つまり人間をもしそれが何であるか,と問う観点からみれば人間の〈本質essentia〉が問われ,同じ人間をそれは存在するかどうかを問う観点では人間の〈実存existentia〉が尋ねられているのであるが,個々の具体的な人間は,この本質と実存との不可分的合体である。そしてプラトンはこの本質をイデアと呼び,アリストテレスやトマス・アクイナスはこれを形相(エイドス)と呼んだ。この形相が人間を人間として規定して,犬や樹木や石から人間を異ならしめる。…

・・・・・・・・・・・・・・・

 バルザックを“今”読んでいるということもあるのでしょうが、19世紀の主要な潮流に「リアリズム」があったと言えるかもしれません。絵画ではクールベということになるわけで・・リアリズムという主張の説得性は若干落ちるようです。(いいのか・・こんな事言って?)
 リアリズムと言うと何はともあれまずは「表現上のそっくりさ」という事になるのでしょう。伊藤廉さんなどに言わせると、リアリズムは「見て書き」だから、基本様式を持たない・・などとなかば軽蔑的に言われてしまいます、
が・・・がです。私もこうした論議に引っ張られていたのですが・・・そういう表現技術上の問題ではなく・・・「固定的美意識、伝統的美意識ではなく、存在に即して美意識を新たに形成する」というもっと根源的な発想がそこにはあったのではないか?・・と思います。

16:29

地毛証明書2

 脳科学者の茂木さんが「地毛証明書」を日本の「後進性」のように書いていて・・・同調する若い人コメントが多くありました。・・・曰く“先生も地毛証明書出すんでしょうね(ズラや白髪を隠してないんですか?)”・・・これは糞味噌な論理ですが、頭髪検査というものに違和感がある人にとっては「心情」としては理解出来ます。

 

 ただ、「ファッションの自由」「身体表現の自由」という問題となると、ちょっと違う・・というのが私の感想です。自由の森学園のような学校のあり方には関心があって、在職中に何回も飯能の山の中に通いました。「高校でありながら大学のようなつくり」の学校でした。ご存じのようにいわゆる「ウヨク的な人」には非難の対象となる学校ですし、佐藤学さんのような人も「自由主義学校であるこの学校は・・」という理解をされていました。 入試に「自己表現(芸術)」を取り入れて「表現」を学校の柱にしていて・・・微妙なバランスの上に成り立っている学校でしょう。自森の教員も「学費が高い学校で・・自分の子供は入れられない」と言ってました。私立学校は入学者の「家庭の経済状況」というフィルターを(結果的に)かけることができるのです。 

 

 この文は茂木さんへの異論なのです。(コメントの入り口がわからない)あなたが教えている東京芸大を基準にしてモノを見ていませんか・・というものです。人間が自律して自覚的個性として「自己表現」をする。「人間は信じられるものだ」・・・そうした啓蒙主義的人間観は正しいでしょう。でもそう正しいことを言う「自分に酔っていませんか?」・・目の前の「荒れる生徒」を前にしてもそんな事が言えますか。

 

 一人の金髪生徒について書きたいのです。(有村さんが演じた、進学私立の落ちこぼれの金髪娘の逆転劇の話しではありません) マンモス団地の一角に彼の家はありました。言うまでもなく「公営団地」は老朽化と高年齢化の中で、昭和のような華やかさはありません。むしろ地域には準組員的な若者がいて・・カツアゲまがいの人間関係を築いています・・と彼が言っていました。

  ・・・・・? いや 具体的に書くのは「守秘義務違反」でしょう。

 環境や習慣、家庭状況や健康、恵まれない人は何重にも「不本意」な事象が積み重なって行きます。「小さな本人なりの努力」など・・生かせない境遇というのもあるのだと思い知らされました。

 

 「たかが金髪、されど金髪」です。金持ちのお坊ちゃんが、ファッションとして金髪にするというのと「文脈」が違います。「金髪」という形で表現される人間としての要望・叫びをキャッチできないとしたら、教師失格だと私には思えます。

 

地毛証明書

「地毛証明書」がネットで話題になっています。
自分として論立て出来ているわけではないが・・単純な批判・・に違和感があります。
「所詮、現場を知らない人の意見だ」という私の心の声があって、でもそう思う自分もまた情けない・・・と感じている自分がいます。

 地毛証明書・・それが「奇妙で」「人権を踏みにじっている」という感覚には同調しますが・・・ちょっと待て・・・と感じてしまうのは(元)教員の性なのかも知れません。

  以下 弁護士さんのブログ

> 生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在するものであって、そのような生徒に対して黒髪を強要することは、不合理な差別であると言わざるを得ません
(○○弁護士)

 上の文は、解釈を間違っています。・・「地毛証明書」というのは「赤毛」の人はそのままで良い・・という証明で・・黒髪にしろではない。という点で完全な誤解なわけです。教師の本音は違う・・と推量するのでしょうが・・それは読み過ぎ・・というものです。

・・・・・・・・・・・
反発する人の気持ちがわかってきました。もしかしたら「ユダヤ人証明書」みたいな感じで受け止めているのかもしれません。証明書を出させて、「よい子」がみんな黒髪にしたら・・ある意味怖い・・かも知れません。赤毛の子が目立ってしまって・・後ろ指さされて、ひそひそ話がされる情景が浮かんできます。(戦前の日本では、赤毛の子はつらかった?)
・・・・・・・・・・・

 こういうブログがありました。

“自由”にすることで“人が育つ”教育

 教育現場で「地毛証明書」を提出させるほどシビアに取り締まり、黒髪でなければいけないと押し付ける必要があるのかどうかを問いかけたい。なぜなら、“禁止”から生徒を解き放つことで感性豊かであったり、勉強ができる人材が育っていく教育もあるからだ。そんな日本の学校を2校紹介したい。
 1校目は、都内トップの進学校である麻布学園には「校則」が一切ない。服装や髪の毛の色はすべて自由であり、茶色に留まらず髪色が赤や黄や青の生徒がいるのだとか。しかし、この高校は「自由な生き方」をさせるのが方針。「自由」に責任はもちろん伴う。つまり自由の中で社会とのバランスを“自分で考えて”行動することを委ねている。
 この校則なしで“自分で考える”力を育てている方針が麻布学園を東大合格者数4位の進学校にさせる1つの要素なのではないか。
そして2校目は、自由の森学園。その名の通り自由な学校で、「一人ひとりをかけがえのない“個”として育む教育」を掲げ、校則も定期試験もない。麻布学園のように「偏差値が高い」学校ではないが、クリエイティブな人材を多く輩出している。
・・・・・・・・・・・
 超エリート校の麻布を出しますか!・・・麻布の入試問題を見たことがあります。町の自転車店でスポーツタイプの自転車を見たが・・やはりイタリア製の自転車にかなわなかった。という内容でびっくりしました。入試や家庭環境のレベルが高すぎです。
  私は「自森」が好きで学校見学に何度も行きましたが・・これも別の意味で「エリート主義」です。
 以前日比谷高校に勤務していた先生がこういいました。「日比谷で驚いたのは、昼休みにヴァイオリンやチェロを持ち出して演奏を始めるんです。部活ではなく一般生徒がです。・・・“太鼓”じゃないですよ」
「“太鼓”じゃない」に驚きました。当時、太鼓を通して生徒に自信をつける。という取組がはやっていたころです。ソーラン節もですね。

 私は本来は「赤毛」でも「金髪」でもいいと思います。しかし、問題はそうして「学校が成り立つか」ということです。「腐ったミカンはない」という言葉が金八先生ではやりましたが、ああしたドラマが毎日の学校でおこっていたら・・普通学校は荒れ果ててしまうでしょうし、実際荒れ果てていました。

 ある学校で、生徒がバイク事故で死にました。モンキーバイクで飛ばしていて車に衝突しました。葬式をしました。赤毛、金髪の生徒が他校生も含めて大勢集まりました。集まった生徒たちの一部はコンビニの前でヤンキー座りをしてたむろしていました。そして夜学校に入って、ベランダに 大量のタバコの吸い殻と落書きを残して行きました。彼らなりの葬式だったのでしょう。書き始めたのですが・・こうした話題は難しいです。いろんな心理が輻輳するからでしょう。人なつこい生徒でした。が、亡くなると「殉教者」になってしまいます。「オートバイに捧げた、青春・人生」というストーリー(神話)が生まれます。・・・今考えると、この頃から格差・貧困が強まったのでしょう。片親家庭や両親とも非正規という家庭が目立ち始めました。学校文化を受け入れない親が少なくない。
 その亡くなった生徒の親は葬儀で言いました。「若いんだからオートバイに乗って何が悪い。それも若さというもの」・・・多分教師もそれに共感すべき?だったのでしょう。校則に反して・・・というニュアンスの言葉を言う教員もいて、生徒の反感をかっていました。

 地毛証明書・・・哀れな方策です。 でも「自由な校風」と言う評判がたつと、金髪・赤毛の生徒が集まってきます。何が生まれるか・・・仲間さんの「ごくせん」みたいな教室が出現します。バックにヤクザさんのいるヤンクミならいいですが・・普通の教師では対応出来ないし・・一話完結的に考えを変えるはずもありません。地域には金髪生徒に目をつけている「組」関係者がいるわけです。

この辺で中断します。